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高校野球発祥の地、豊中グラウンドとは?跡地に残る赤レンガの遺構をたどる

2019年8月12日大阪北部

今年の夏も、危険なほどの暑さが続いてますね。

気温表示に「37度」「38度」が並んでも驚かなくなってきた自分の感覚が少しこわいです。

どうかあなたも、冷房やこまめな水分補給など、熱中症には十分気をつけていただければと思います。

そんな猛暑の中、甲子園球場では、高校球児たちが夢を追いかけ、白球を追いかけています。

球数制限や大会日程の課題など、高校野球には賛否両論あります。

ただ、全力でぶつかり「一度負けたら終わり」という真剣勝負は、やはり胸が熱くなりますよね。

私も高校野球が大好きです。

今年はどの高校が優勝旗を手にするのでしょうか。

今回は、野球そのものではなく「甲子園球場が誕生する前」の話をしてみたいと思います。

高校野球の発祥は、実は「甲子園ではない」

本ブログでは、これまで大阪近郊で消えた球場として、次のような記事を書いてきました。

かつての名球場は、時代とともに少しずつ姿を消していきました。

そして、今回取り上げるのも、まさに消えた球場の一つです。

今ではは当たり前のように「高校野球の聖地」として知られる阪神甲子園球場ですが、実は…

第1回全国中等学校野球大会(現在の夏の甲子園)は、甲子園では開催されていなかったのです。

その舞台となったのが、大阪府豊中市に存在した「豊中グラウンド」です。

豊中グラウンドとは?

現在の「夏の甲子園」の前進は、全国中等学校野球大会です。

その記念すべき第1回大会が行われたのが、大阪府豊中市にあった「豊中グラウンド」なのです。

「豊中にそんな大きな球場あったっけ?」

多くの人がそう感じるのではないかと思います。

豊中グラウンドは、1910年(明治43年)に開通した箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が、沿線開発のため、1913年(大正2年)に建設した球場です。

赤レンガの外壁に囲まれた広大な敷地は、なんと2万平方キロメートルにも及んでいたそうです。

当時としては日本屈指の施設を誇り、野球人気の高まりとともに多くの観客を集めました。

ちなみに、第1回大会に出場した学校は10校。

5日間の熱戦の末、京都府立第二中学(現在の鳥羽高校)が初代王者となりました。

まさに、豊中グラウンドこそが、高校野球発祥の地なのです。

豊中グラウンドのその後

関西の野球人気は想像以上に高く、豊中グラウンドには連日多くの観客が押し寄せました。

しかし、あまりに人が集まり過ぎたため、施設の収容力が限界に達し、第3回大会(1917年)以降は、兵庫県の鳴尾球場へと会場が移されることになります。

つまり、豊中グラウンドで全国大会が開催されたのは、わずか2回だけだったのです。

その後、第10回大会(1924年)からは、現在に続く阪神甲子園球場が舞台となりました。

豊中グラウンド自体も、1921年頃までは大阪大会の予選などに利用されましたが、時代が進むにつれ姿を消し、大正時代末期には完全に取り壊され、跡地は住宅街へと変わっていきました。

現在の跡地と残された遺構

2019年時点で、豊中グラウンドの跡地には、外壁の一部と思われる赤レンガがわずかに残されています。

また、1988年(昭和63年)には、正門の向かい側に「高校野球メモリアルパーク」が整備され、2017年(平成29年)には、「高校野球発祥の地記念公園」として、リニューアルしました。

公園内には「高校野球発祥の地」と刻まれたモニュメントも設置され、静かに当時を伝え続けています。

高校野球ファンの方であれば、一度は訪問してみると、感慨深いものがあるのではないでしょうか。

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Posted by かずきび47