泉ヶ丘ヤングタウンとは一体何だったのか?

かつて泉北ニュータウンに存在した「青春の舞台」の記録
泉北ニュータウン・泉ヶ丘の片隅に、かつて「ヤングタウン」という不思議な建物が存在していました。
昭和40〜50年代の大阪では、地方から都会に働きに出る若者を受け入れるため、単身者向けの住宅がいくつもつくられました。
その代表格のひとつが、この三原台2丁目にあった「ヤングタウン」です。
現在、その建物はすでに姿を消し、跡地には学校や医療機関が立ち並び、当時の面影は完全になくなってしまいました。
しかし、私を含め、この場所で青春の一部を過ごした人たちにとっては、忘れられない思い出が深く刻まれています。
この記事は、当時を知る人のための「記憶のハブ」として、ヤングタウンの歴史、生活、そして2つの記事の整理をまとめたものです。
ヤングタウンとは?(概要と歴史)
ヤングタウンは昭和47年、急増する若者を受け入れるために建てられた単身者住宅です。
特徴としては、
・月額18000円という安さ
・部屋にはトイレ・風呂なし
・男性用の大浴場
・完全寮制のような門限(23時)
・食堂と体育館つき
・管理人(ペアレント)常駐
という今ではありえない仕様がずらり。
建物は複数棟に分かれ、コンクリートの廊下や非常階段が張り巡らされ、初めて訪れると少し「監獄」のようにも感じたものです。
しかしその無骨さこそが、当時の若者たちの生活の背景になっていました。
私が過ごしたヤングタウンでの日々
私は1993〜1998年ごろ、泉ヶ丘駅にほど近いヤングタウンで一人暮らしをしていました。
学生だった私は、奨学金とアルバイトだけで生活していたため、低家賃で暮らせるヤングタウンは本当にありがたい存在でした。
部屋の横が共同トイレだったこと、夜に暗い遊歩道を歩いたこと、反抗期のように門限を破って帰ったこと…。
今思い返すと、どれもこれも懐かしく、そして大切な思い出です。
ある意味「私が不動産ビジネスに興味を持つ原点」になった場所でもあります。
※私は、現在、不動産投資家です。
コメントで蘇った、当時のディープな記憶
ヤングタウンについて書いた最初の記事には、A様という読者の方からとても温かいコメントをいただきました。
それをきっかけに、私の記憶に眠っていたディテールがいっきに蘇りました。
・暑い日、涼めた外付けの非常階段
・浴場前の自販機
・Aランチ・Bランチが選べる食堂
・屋台のラーメン屋(煮卵が絶品)
・ヤンキー多めの治安
・コンビニがない時代の不便さ
・駅前・トリオトでの買い物
・旧泉ヶ丘プール横の薄暗い遊歩道
・今は見かけないダストシュート
・監獄のような廊下の雰囲気
どれも、実際に住んだことがある人にしか分からない“空気”を含んだ記憶です。
コメントをきっかけに思い出が連鎖し、
「ああ、自分だけの世界じゃなかったんだ」
と、どこか嬉しい気持ちになりました。
ヤングタウン跡地の現在
ヤングタウンは2001年の財団解散後、入居者の減少もあり、少しずつ解体が進みました。
現在(2025年時点)、跡地の周辺には
・東大谷高校・泉ヶ丘キャンパス
・近畿大学医学部・堺病院(泉ヶ丘キャンパス)
・新しい分譲マンション
などが建ち並び、街並みは完全に変わりました。
地図上には痕跡すら残っていませんが、私の中ではいまだにヤングタウンの建物が立っているように思えます。
関連記事(当時の詳細はこちら)
泉ヶ丘ヤングタウンでの生活
コメントから蘇った追加の記憶まとめ
近畿大学医学部の前に存在していたのは…
もしヤングタウンをご存じの方がいれば…
この記事を読んで、
「懐かしい!」
「私も住んでいました!」
「ヤングタウンのXX覚えてますか?」
という方がいらっしゃれば、ぜひコメントをいただけると嬉しいです。
すでに建物は消えてしまいました。
ただ、人生のどこかに刻まれた「あの時間」は、今も私の中に残り続けています。
そして、こうして記録として残すことで、同じ思い出を共有してきた人たちの心にも、静かに灯りがともればいいなと思っています。
まとめ
・ヤングタウンは泉ヶ丘にあった単身者住宅
・現在は完全に姿を消した
・当時を知る人の記憶は今もつながっている
・この記事は「記録と交流のハブ」としての役割を持つ
今後も、「泉北ニュータウンの記憶」「泉ヶ丘の歴史」「あの頃の街並み」など、少しずつ記録として残していきたいと思います。






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