その昔、泉ヶ丘駅の近くにあった家賃18000円の単身者住宅ヤングタウンとは?

2021年7月13日大阪ノスタルジア:大阪南部

今から約30年ほど前。

大阪南部にある泉北ニュータウンは団塊ジュニア世代で賑わっていました。

私も団塊ジュニア世代のひとりで、泉北ニュータウンで生まれ育ちました。

私はもともと、栂・美木多駅の近くの団地で家族と暮らしていました。

ただ、一人暮らしを夢見ていた私は、府外ではなく、なんと隣の駅である泉ヶ丘駅で一人暮らしを始めたのです。

泉北ニュータウンが好きだったんでしょうね…。

ボロボロの建物でしたが、今となっては青春時代の思い出となっています。

今回は、この思い出の建物を紹介したいと思います。

ヤングタウンとは?

私が一人暮らしをするために、泉ヶ丘駅で見つけた住居。

それは三原台2丁目にありました。

通称「ヤングタウン」

ツッコミどころは満載な名前ですが、当時、その地区では有名な建物でした。

ヤングタウンは、高度成長期に就職などで地方から出てきた若者を受け入れるためにできた単身者住宅です。

昭和47年に入居が始まりました。

特徴としては、下記5点でしょうか。

・家賃18000円
・共同浴場
・共同トイレ
・門限&寮制度
・食堂&体育館

共同トイレに共同浴場です。

今では不人気物件の代表格でしょうか。

共同浴場は、入居者向けの銭湯のような感じでよかったですね。

現在の私の趣味「スーパー銭湯」につながっています。

あと、私はトイレが近かったので、共同トイレの横の部屋でした。

夜中目覚めても、横がトイレだったので楽でした。(そもそも自分の部屋のトイレがないことが問題かもしれませんが…。)

23時が門限でペアレントと呼ばれた管理人も常駐していました。(ほとんど破っていましたが…。)

建物の中は、お世辞にも立派といったものではなく、ぱっと見、監獄か廃墟のようにも見えました。

ただ、私は窓から見える景色が好きでした。

泉ヶ丘駅と深井駅の間を走る泉北1号線のカーブの夜景がとても綺麗なのです。

このため、上層階である9階に住んでいました。

阪神大震災のとき、9階はびっくりするほど揺れましたが、建物は無事でした。

当時、私は学生でしたが、仕送りをもらうこともなく、奨学金&アルバイトで生計を立てることができていました。

逆に言えば、ヤングタウンでないと、独力で生計を立てることは難しかったのかもしれません。

ヤングタウンでの思い出

私は泉北ニュータウンに友達がたくさんいました。

実家の団地だと、なかなか友達を自宅に呼ぶことができませんでした。

ただ、自分だけの自由な空間を手にすることができた私は、好き勝手に友達と遊ぶことができました。

朝まで飲んでいたこともありましたし、路上駐車で罰金を支払ったこともありました。

大晦日を友達と狭い部屋で過ごしたこともあったっけ…。

この自由こそが、当時、若かった私が得たかったものなのかもしれません。

現在の私は、不動産賃貸業を経営していますが、その原点だったのではないかと感じています。

ヤングタウンのその後…

私の思い出の地であるヤングタウン。

ヤングタウンも時代のニーズや少子高齢化の波には逆らえませんでした。

1990年代になり、入居者の確保が困難になってきたのです。

ヤングタウンを管理していた財団法人が2001年に解散を余儀なくされたのです。

ちなみに、私が入居していたのは、1993年から1998年頃でした。

2001年以降、建物や施設は、少しずつ解体されていきました。

私の思い出の敷地は、民間の不動産会社などに売却されていったのです。

とても悲しい気分となったことを思い出します。

その結果、現在、ヤングタウンは跡形もありません。

ヤングタウンの跡地は、分譲マンションおよび東大谷高等学校泉ヶ丘キャンパスとなっています。

ちなみに、ヤングタウンの横にあった泉ヶ丘プールも姿を消しています。

私にとっては、青春時代を共にしたヤングタウン。

施設や建物自体は消滅しましたが、思い出はかけがいのないものとして現在も私の中に残っています。

携帯電話やSNSもありませんでしたが、いい時代だったんだなぁと。

たまには、この時代のことも思い出したい気持ちから、記事にしてみました。

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Posted by かずきび47